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滄州の歴史について

滄州の考古学者:王敏之先生
滄州の「鉄獅子」の歴史について:「獅城探秘」
滄州の考古学について:「滄州考古録」

 

 
 

 当会の理事長 王正先生の生まれ故郷は中国河北省滄州市です。
 滄州は古くから“武術之郷”と呼ばれ、とくに19世紀末から20世紀初頭にかけて中国全土に名をとどろかせた多くの武術家がここ滄州より生まれています。
 また近代の有名な政治家である張之洞や軍閥の馮国璋なども滄州の出身です。
 以下、滄州の地理・歴史・武術などについて簡単に説明しましょう。

 
 
 
 滄州の考古学第一人者――王 敏之 先生:
   
 
   
   1930年に中国河北省河間県生まれ、名勉之、字敏之、号子慕、別号楼蘭居士
   中国考古学学者、中国考古学研究員(大学教授同レベル)、中国国家高級文物検定師
   中国考古学会会員
   中国文物学会会員
   中国中日関係史学会会員
   中国河北省文物考古学会理事
   中国河北省沧州市文史研究会会員
   
 
 
 
 滄州の「鉄獅子」の歴史について――「獅城探秘」:
 
  この著書について、下記の一つ中国の新聞記事をご紹介します。
   
   
  不足不息 探秘獅城一学者王敏之、滄州の文物建設(文化財の発掘・保全・管理)を語る
  《滄州ニュース・サイト》 2008・11・21   9:09:20
   
 

 最近、学者王敏之は、20 余年心血を注いで著した「獅城探秘」を出版した。この著書は、フィ ールド考古学と歴史文献を結び付け、完全に系統立てて滄州古城と国宝鉄獅子を紹介した全国第一の例である。目下、王敏之は「滄州考古録」の改訂に着手し、既に、三稿を改め、約 30 万字を 費やして、20 世紀に発見、整理された文化遺跡、古い墓、窖蔵(あなぐら)、古建築、収集文化財などによって、系統立てて滄州を紹介している。これらは、また、滄州の文化財研究の重大な成果である。王敏之の研究精神と方法は滄州の文物建設(文化財の発掘・保全・管理など)に多くの啓示をもたらした。
 記者:「獅城探秘」、「紀暁嵐遺物叢考」、並びに、あなたが現在、改訂中の『滄州考古録』、これらは全て、滄州の文化遺産に関する重要な著作で、学術価値は非常に高いものです。ところで、 私は、さっき、あなたの書斎で、並んでいる書籍を見ましたが、これらも同じような種類のものが主でした。あなたは、どうして考古学の道に進むことになったのですか。
 王敏之:私が考古学の道に進むことになったのには、父親と師友(師として敬う友人)の影響があります。私の父親は、かつて、北洋三傑の一人、王士珍指揮官下の士官で、古い道具類を好み、 骨董店を経営したこともありました。父は、河間の故郷(生家)に帰った後、家庭の経済状態がだんだん悪くなり、生活費維持のため、これら収蔵品を売りに出しました。このような家庭での生活は古物に対する興味を生じさせました。
 父親には、劉沖という忘年の友がありました。彼は、教師として河間市内に配属され、1940 年 代、しょっちゅう我が家に来て父と雑談をしていました。彼の学問は非常に深くて広く、話す事柄の多くは学術的なものでした。彼は、かつて、私を戒めて、学問をするには、必ず、謹厳で、 よく考え、高望みはするなと言いました。これは、私に深い影響を与えました。
 17 歳の時、私は天津に行き、骨董店の徒弟になりました。長い間ではありませんでしたが、私にとって、自立後、はじめての人生の旅で、あって、古物と付き合うことになり、重大な意味を持ちました。
 1958年、私が就職したのは文化部門で、1976年まで、ずっと、私は、地区行政公署文教局文物組に派遣され、今に至るまで、まるまる50年、考古学の仕事に従事してきました。
 記者 :「獅城探秘」の執筆に、あなたは 20 数年間、体力・気力を費やしました。その中には、多くの辛酸苦楽があったはずです。もし、研究精神の支えが足りなかったら出版できなかったで しょう。
 王敏之:私の書斎の名前は最初、“三余書屋"と呼んでいました。現在は、“不足不息齋"と称 しています。三余は、三国魏の人、董遇の故事から付けました。董遇は「老子」、「春秋左氏伝」などを善くしました。ある人が学問するのに時日がないと苦しんでいると、董遇は“三余を持ってすべし"と言いました。人が三余の意を問うと、董遇は、“冬は歳の余り、夜は日の余り、雨天は晴れの余り"と答えました。私は“三余"の意味を“晨(あさ)、午、晩"、この三つの時間と受け取り、これらの時間を割いて読書学習しました。
 1994 年以降、私は書斎の名前を“不足不息齋"と改めました。だんだん高齢になってきたので、 自強不息(自ら努め励んでやまない、)を採用しています。学び、その後、足りないことを知るの意味です。一段と時間を惜しんで学問しなければなりません。
「獅城探秘」は、私に、まるまる 20 年のしかかっていました。1986 年に書きはじめてから、2006 年に筆を停めるまで、まる 20 年間、執筆している?そうではありません。資料が足りなかったり、いろいろ問題があったり、妨げがあまりに多いと、執筆中とはいえ書くわけにいきませ ん。この 20 年間、正確に言うと 30 余年、初めて鉄獅子を見た 1976 年から、この書の出版前、2008 年まで、ずっと気が抜けませんでした。
 この書の編纂は十月(とつき)の懐胎と同じでした。つぶさに辛酸苦楽をなめたというだけでなく、その上、心脾(心臓と脾臓、すなわち、自分の体の中で成長してくる生命、胎児)に触れるものでした。各地に高名な先生を訪ねて教えを請う、野外で実地に考古学調査をする、大きな図書館や博物館へ行って資料を調べる、こういうことはさておき、ただ、字数についてだけ言うと、この書は約 35 万字、すべて私が一字一字書き、パソコンに入力しました。平均して、一字 3 個のピンイン字母と計算すると、キーボードを 100 万余回打ったことになります。いつも、8 、9 時間以上、入力し、時には、払暁、2 時、3時にさえなりました。もし、自強不息と物事を大急ぎでする精神が無かったら、この書を執筆し終えられなかったと思います。
 記者:元中国文物学会会長羅哲文は、かつて、「獅城探秘」を、「各方面すべてに、深く掘り下げた研究と大胆な探究を行い、数百年の誤伝を明らかにした。研究の中で、歴史文献の利用を重要視しただけでなく、出土文化財の裏付け、そして、これら両者の結合に特に力を入れ、更に該著書の科学性と学術性を増加させました。」と評価したが、これは非常に高い評価と言うことができます。“実事求是"の精神がこの書の中を貫いています。ところで、“実事求是"は、献王の学 術精神を源とし、滄州において途切れたことがなく、一人の先輩学者として、あなたはこの精神 を継承しています。
 王敏之:「滄州日報」は、かつて、度々、学者の文章を発表し、滄州の文脈(文化的連なり)を梳(す)き整えてきました。献王以来、滄州において学者は、“実事求是"の精神をずっと貫き通してきましたし、滄州の学術においても、この精神は中断することがありませんでした。清代中後期についていえば、考証学の流派に沿って、著名な学者、王国均と叶(以下、“葉"と表記する) 圭綬が出ました。王国均、即ち、王侶樵と葉圭綬は異姓の従兄弟です。私は、滄州鉄獅子の銘文の来歴を研究してきましたが、葉圭綬が王侶樵に書いた一通の手紙が役に立ちました。王侶樵には、「滄州金石録」という滄州の金石文物などを系統立てて著した一書があります。ただ、惜しいことに、正式の刻印がない出版です。葉圭綬は尋常の人ではありません。彼は、わが国の傑出した地理学者で、「続山東考古録」などの著作が伝わっています。また彼は、中国人で、視野を広げて世界を見た最初の人で、初めて、正しい比例で、方位に基づき、極点を中心とする世界地図、「万国大地全図」を制作しました。それで、張之洞は、王国均の墓志銘の中で二人を、清道光帝以後、京畿で最も重要、最も著名な学者として褒め称えています。
 私は、まさに、彼らの敷いた道路に沿って前進し、先人の足取りにぴったり付いて行こうとしました。その結果、治州 50 年来の新しい考古発見等の資料は、滄州の歴史文化を整理し、滄州の 歴史を復原することになりました。
 文献と野外考古調査が互いに結合し、互いに裏付ける、これが歴史考古学の核心の方法です。どちらか一方に偏ると、たぶん、間違った結論をつくりあげるでしょう。それで、このような要求を満たすためには、野外考古調査、器物の識別、時代区分、文献などに対して、相当着実な基礎的技能を有することが必要です。私自身、これら方面において感覚不足で、学術研究中、難題に出くわすと、高名な先生に教えを請い解答を求めました。
 当今、滄州には、歴史関係の仕事に従事する若い学者が少なくありません。私は、これら若い学者が文献研究と野外考古調査の方法の両面を身につけることを希望します。最大程度に歴史を復原することは肝心な点であります。滄州の歴史を復原し、何が最も基本の問題かをはっきりさせて初めて、われわれは、むやみに卑下したり、驕ったり尊大ぶることなく、客観的に自己の文 化を取り扱うことが出来るのです。
 記者:あなたは、滄州の文化財の考古研究に対して、どのような提案をしますか。
 王敏之:先ほど言ったように、文化財の考古研究は基礎研究で、この分野は、清代考証学者達が着実に研究しました。時代は変化しており、新しい考古資料が絶えず発見され、歴史は絶えず充実し、修正され、私たち文化財関係の業務に従事している者は、この厳粛で基礎的な業務を成し遂げ、後人が滄州文化を研究するのに、一次資料を提供すべきであります。
 筋道、考証、修辞、この 3っつの鍵のうち、考証、即ち根拠が最も重要で、考証、根拠がなければ立論は大きな問題を生じ、文章が立派でも、間違った立論に奉仕することになり、意味がありません。広く伝わって久しい林沖の滄州流刑の故事に似て、多くの人は人の言ったことに同調し、たとえ文章が立派で、立論がすぐれていても、立論の根拠が小説家の言であれば、現される意義 は少ないでしょう。
 文化財の考古調査を通して歴史を整理することは、多くの分野における文化研究の基礎であって、この分野で心血を注ぐ人が居て初めて、その後人は、これら資料を完全に拠り所とすることができ、引き続き、深い所へ延ばすことができるのです。
 文化財の考古調査に対して、私は、発見、発掘した文物を十分に利用すべきだと思います。提供した人たちが鑑賞するのを除いて、文化財関係の業務に従事している者は、これら貴重な資料をよく整理し、着実な学術文献に仕上げ、その他の部門の学者に研究資料を提供すべきだと思い ます。(祁霊宵)

 

○ 文物:文化財、文化遺産
  文物工作者:文化財関係の仕事に従事している者。文化財関係業務従事者。
        工作は、狭くは作業、広くは事業。その他、仕事、業務、活動、職業
  文物考古:考古学、考古研究、文化財の考古調査
  文物考古工作:文化財の考古研究
  文物研究工作:文化財研究事業
  文物建設:文化財の発掘・保全・管理など
○ 北洋:清末、今の遼寧、北京、河北、山東など沿海地方を呼んだ称。政治・文化の中心地域。
○ 河間:滄州の古い呼称。現在、河北省治州市に位置する県級市として、河間市がある。
○ 好高鶩遠:現実的でない目標を追求する。高望みをする。
○ 献王:献王劉徳。前漢の景帝の第 2 皇子で、前 155 年、河聞の王に封ぜられた。修学好古、実 事求是の人であった。
○ 張之洞:清末の洋務派政治家。湖広総督、軍機大臣。河北省槍州の少し南、南皮の人。
○ 祁霊宵:この記事を書いた人。

 

   
 

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 滄州の考古学について――「滄州考古録」:
   
 
   
  この著書について、下記の一つ中国の新聞記事をご紹介します。
   
 

研究発見:河北沧州(滄州)の人類居住史は4,000年を超える
2012年02月13日16:31出所:光明ネット ホットテーマ 携帯電話で見るニュース

 王敏之先生が最近出版した「沧州考古录」の本の中で、次のような情報が伝えられている。発掘を通じて沧州(滄州)大地に人類が居住した歴史は既に4,000年以上であることが証明された。元中国文物学会会長罗哲文氏は「沧州考古录」の序文の中で次のように評価している。「沧州考古录」は重要な学術価値を備えており、沧州歴史上第一級の探索考古発見、発掘成果の本である。
王敏之は今年82歳で、中国考古学会会員、中国文物学会会員、中国中日関係史学会会員、中国河北省文物考古学会理事、沧州市文史研究会会員等である。1959年文化財の考古学を学び、且つずっと文化財の考察や研究の仕事に従事し、1990年定年退職後も依然として考古の仕事が楽しくて疲れを感じない。出版は「纪晓岚遗物丛考」「狮城探秘」「沧州考古录」の三部、考古著作は合計百余万字である。
 40万字”新作“沧州人類居住史の跡をたどる
 沧州大地において人類居住の歴史は4,000年以上、これは一人の82歳の人の新作「沧州考古录」の本の中の記録情報である。どのような証拠証明が有ってこのような結論になったのか?この疑問が我々を王敏之先生の生活に興味を持たせ、彼に“文化財研究の旅”の過程を聞いてみた。
 2月7日王敏之先生の家に到着した。彼は笑顔で迎えてくれた。書棚の上には各種の資料が並べ立てられていた。
王敏之は1947年河間で仕事をしていたが、1959年天津で文化財研究の専門課程の養成訓練を受けた。1976年彼は泊头から沧州へ移動し、文化財管理の仕事に従事した。その時から、自分の一生と、この土地の文化財研究の仕事を緊密に結びつけ、一生共にしようと思った。
 王敏之は、20世紀後期の考古発見から、沧州大地で4,000年以上の人類居住の歴史が有り、祖先がこの広大な土地の上で既に定住し、延々と絶え間なく増えながら生活してきたことを立証していることが分かると言っている。
 この報告は王敏之が最近出版した考古学の叢書「沧州考古录」(合計40万字、5巻)の中から収録したものである。この本は王敏之の“文物考古之旅”系列作品の第三部、特に沧州全市内にある20世紀に発見された歴代の遺物、その中には古代遺跡、古代古墳、古代建築、貯蔵された文物及び徴収され、寄贈され、選択され、買い付けられ、又この地から採集された歴代の文物を紹介及び探索したものである。
 これらの意義が語られてから、この本は20世紀の沧州地区の古い文化探索の“中間のまとめ”と言われるようになった。
沧州大地での人類居住が4,000年以上に達する歴史の発掘過程について語るとき、王敏之は次のように回想した。1986年今の任丘市哑叭庄の西北1.5キロメートルの荒地の上で、ある人が磨かれた石器と磨かれ光っている陶片を発見し、すぐに市の文化局に報告され、又追って上級の省文化局に報告された。調査後この地区発掘続行の必要性が認められた。
 国家文物局の許可を得たのち、河北省文物研究所と沧州地区文物管理所がチームを組み、1989年春に遺跡に対し緊急的な考古発掘を進めた。1990年夏、秋と、今から4,000年・3,000年前の哑叭庄の遺跡の発掘と出土器物の分析を続けた。
1992年、河北省文物研究所と沧州地区文物管理所が共同発表した。(河北省任丘市哑叭庄遺址发堀报告)
 その実は、沧州大地上の人類居住の歴史はさらに遠く遡るべきであるということである。1987年、黄骅北郊で“細石器”の採集が数10件に達した。すぐ後で王敏之がまた現場に行き調査を進め、また採集を進め、前後で“細石器”を100余件採集した。細かい視察を経て、王敏之は発見したこれらの“細石器”と1963年陕西省朔县峙峪で発見した細石器とが類似していることを発見した。いっそう認証を固めるため、王敏之はわざわざ石器を持って北京に行き、中国社会科学院考古研究所考古学家安志敏氏に鑑定を依頼した。安志敏は王敏之が提出した沧州地区の歴史と初期の文化財遺物を比べた観点から賛同を表わし、前後して黄骅に行き、考察、発掘をした。すぐ後で、国家の学術の中心期刊紙「考古」上に論文(河北黄骅发现的石器)が発表された。これらの証拠をもとに安志敏は沧州大地上の人類居住の歴史は一万年ほど遡るべきであると認めた。
 風雨も恐れず考古の道を行く
 王敏之は沧州大地の歴史の轍の中を数十年歩いて来、その所有する成果は王敏之の考古の仕事に対する執着心や真面目さと切り離すことは出来ない。
 上海复旦大学の博士課程の指導教官马涛氏は「沧州考古录」の序文に“考古は土を掘ることである。土を掘らないのは考古と言わない”と書いている。考古従事者が成果を得ようと思えば、必ず年中外に出て田野の調査や発掘作業をしなければならない。王敏之はこのように働き、しかも大変真面目であった。
 王敏之の言によれば、前世紀の60年代、彼は正に考古に夢中になっていた。有る時、王敏之は阜城県(55キロ離れた所)へ行き、或る漢代の古城遺跡を調査したいと提起したが、その時丁度父の体調が悪くなった。しかし、父は止めず、しかも断固として支持した。王敏之は父に対して後ろめたい気持ちを心に抱きながら汽車に乗ったが、東光駅に着いた時、突然天からぼたん大雪が降ってきた。“たとえ急いで遺跡に着いても、おそらく早々に大雪に覆われ、何の結果も得られないだろう”このように思い到り、王敏之は方向を転じて家に帰った。
 帰宅後、家に住む姉さんが王敏之に彼の父が部屋の中で転倒し、彼女に助けられたことを話した。“父親はずっとこの事に触れなかったが、私は父親の顔に鬱血した傷を発見した。”と王敏之は言い、本当にあの冬、父は一つの病気もしなかった。この出来事は、王敏之の文物考古の旅の船出の際の出征行進曲となり、ずっと彼を励ました。
 その後の考古の道において、どんなひどい条件に出くわしても、王敏之は真っ直ぐ前に向かった。
 1976年王敏之と省から派遣された考古作業員が一緒に肃宁の漢代の武垣古城の調査をした。遺跡に着いた後、突然大風が吹いた。“風と土が混ざって我々は無理やり目を開けなければならないほど吹いた。“と王敏之は言い、風はますます強くなり、風力7~8位となった。しかし古城の塀の周囲の長さや高さを明確にし、データを広げるため、王敏之は目を一本の道のように細めながら、無理やりデータを記録し、省の考古作業員も測量を進めた。王敏之は日を改めようとか休もうとかは言い出さなかったが、彼らも気が引けて、このように二日間ずっとやり抜き、やっとすべてのデータを明確にすることが出来た。
 1977年、王敏之は南皮で調査を行ったが、丁度酷暑の時に当たり、道を急ぐため王敏之は頭いっぱいに汗をかくほど暑かった。宿泊所に戻った後、まず冷水で冷やしたタオルで顔を拭いたが、汗は直ちにまた吹き出てきた。夜記録を調べている時、王敏之は少しめまいを感じ全身が苦しかったが、ずっとやり抜いた。ちょっと書いてはちょっと横になり、またちょっと書いてはちょっと横になり、何回も繰り返して遂に書き終えた。
 「纪晓岚遗物丛考」を出版した時、王敏之はいつも調査に行くときは日記を書いた。その書中には成果のない苦しみと成果を得た喜びが書かれている。
 1986年、王敏之は紀氏の遺物の捜索を開始した。2001年、王敏之は纪晓岚遗物の二回目の大面積の捜索のため再び北京に行き、一軒の小さな旅館に宿泊した。或るとき、王敏之は多くの纪晓岚に関する資料を捜し当て、胸中非常に喜んだ。夜旅館に帰った後、彼は一本のビールと一本のキュウリと一袋のインスタントラーメンを買い、自分のために成果を祝う宴を開いた。
 王敏之夫人は、彼はいつも出張して宿で食べる時は特別簡単で、ある時は一日一~二回の時があると言っている。
 退いてもなお休まず百余万字の著作を出版する
 「沧州考古录」は現代人が後世の沧州の歴史に正確な資料を提供するため、世に問うている。その前に王敏之はさらに「纪晓岚遗物丛考」「狮城探秘」の二部の考古書籍を出版している。三部の書籍を合わせて“沧州文物考古之旅三部曲”と言い、合わせて百余万字になる。これら全ては彼が退職後完成したものである。
 2004年、王敏之は30余万字の 「纪晓岚遗物丛考」を出版し、その中には纪晓岚に関する鮮やかな、知らなければならない多種の珍しくて貴重な文物、絵などの片、遺跡や遺物についての詳細な紹介と考証が収録されている。2008年、王敏之は30余万字の「狮城探秘」を出版し、沧州の歴史の沿革に対し、周囲の郡や県と沧州の古城の色々な方面の考証を行い、沧州の鉄獅子に対し、全方位で探り研究をした。
 自分のこの大きなプロジェクトを完成させるため、王敏之はここ数年大量の心血を注いだ。更に感服させるのは“沧州文物考古之旅三部曲”は王敏之自身がパソコンの前に座り、全ピンインを一字一字たたいて書いたことである。出版の前にはさらに工程があった、それは校正である。王敏之の夫人卢玉芬は食卓を指し、彼は必ずここに10時間以上座り、食事時間以外はずっと校正をしていたと言う。
 このようにして、王敏之は眼鏡をかけ、テーブルに突っ伏して指で差し、一字一字校正した。あるとき夜遅くなり、妻子の眠りを妨げないよう、王敏之は校正を終えて小さな書斎の床の上で休んだ。
 王敏之は妻子が自分を大事にしてくれることを知っており、「沧州考古录」の後記で夫人卢玉芬が生活の上で彼に至れり尽くせりの気配りをしてくれることに、とりわけ感謝をしている。
 “沧州文物考古之旅三部曲”は王敏之の20年前の心の底に埋もれた宿望であったが、20年以上苦心を払った末、彼はついに念願を完成した。これに対しこの老人は
 “これは一人の公民として尽くさなければならない一つの義務である。”と総括した。
 しかしこの一つの義務の中には、なんとこの老人が一生奮闘した文物考古作業に対する熱愛と憂慮が含まれていた。王敏之は、一地方にはこのように読者自身の故郷のことを更によく知らしめる、文物考古関係の読み物が必要であると言う。全く新しい沧州に我々が直面するとき、古い沧州もなおよく知っておく必要がある。特に現在のように生活や仕事のテンポがずっと速くなっている背景のもと、さらに多くの人が沈んだ心を引き上げ、あのような長い歴史の川から真珠をすくいあげ、多くの人に自分の“根”がどこにあり、この土地の真相をたっぷりはっきりと明らかにさせる事が必要である。(于海宁)

   
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