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“中央国術館の父”張之江 |
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張之江(1882-1966)、字は子姜、塩山県留老人荘(現在黄華市に属す)出身。張は北京政変に参加した軍人で、国民党の北伐と全国統一にも大きな役割を果たした。その一方で張は武術を重視し、西北軍内の軍事教練に拳法、劈刀、刺槍、体操の四つを必修科目として採用し、兵士の訓練に取り入れた。
1928年、張は南京に国立中央国術館(国術とは中国武術のこと)を設立すると同時に館長に就任。1933年、中央国術館は全国武術検定試験を実施。さらに1933年と1936年の二度にわたり、代表団を率いて東南アジア諸国等で中国武術のデモンストレーションを行い、当時外国ではほとんど知られていなかった中国武術の紹介に努め、大きな成果をあげた。
国民党の有名な将軍 宋哲元、張自忠、傅作義、孫連仲などの部隊ではすべて張が創立した中央国術館附属武術専門学校の卒業生が武術教官を務めて兵士の訓練にあたり、日中戦争において大きな軍功をあげた。 1954年、張は毛沢東主席に手紙を送り、武術事業のさらなる発展の重要性を訴えた。1955年2月、毛主席は自ら張に返書をしたため、張の提言を重く受けとめたと心中を吐露している。その後、張は全国政治協商会議において《国家武術機構成立に関する建議》を発表。さらに1956年、賀龍元帥に国家武術研究組織の設立を強く訴え、その結果その年に中国武術協会が成立した。 |
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大侠 霍元甲 |
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霍元甲(1868-1910)、字は俊卿、祖籍は滄州東光安楽屯である。天津静海小南河村にて生まれる。霍は各流派の優れた技術を融合して独自の“迷蹤拳”を編み出し、先祖伝来の武芸を最高レベルにまで高めた天才武術家である。
霍は新聞紙上などで「武術は個人の勝敗のみにこだわるものではなく、ひとえに愛国主義を宣揚するものである」と主張し、国民に武術を通じて団結と相互扶助を呼びかけた。のちに霍とその弟子は上海において日本人武術家と試合を行い、これに勝利して大いに中国武術の名を高めた。
1910年6月、霍は上海で中国の歴史上初めての体育団体である精武体操会を設立。これが現在の精武体育会の前身である。
ジェット・リー主演の映画『スピリット』ではリーが霍元甲役を演じて好評を博したが、霍の伝記は近代中国武術界の大英雄としてそれまでにも何度も映画やテレビドラマになっている。 |
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大刀 王五 |
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大刀王五(1844-1900)、本名は王正誼、滄県の出身。燕子李三、霍元甲、黄飛鴻などとならぶ近代の著名武術大師。王は義侠心に篤く、愛国心は群を抜いていた。清朝末期、皇帝に直接政治改革を諫言した憂国の高級官僚 安維峻、梁啓超、譚嗣同などと義兄弟の交友を結び、譚嗣同は王より武術を教わるほどであった。
“戊戌の変法”が失敗に終わり、譚嗣同が投獄されると王は武術界の志士たちと協力して彼を救出しようとしたが、譚嗣同はこれを断り、のちに“戊戌六君子”として処刑された。しかし王は譚嗣同との友情を忘れることはなく、自らの生命の危険も顧みず譚嗣同の遺体を回収し手厚く埋葬した。
1900年、中国の植民地化を進める欧米列強に対抗して義和団の愛国運動が盛んになると、王は民衆を率いて積極的に運動に参加し勇敢に戦ったが、ついに八カ国連合軍との戦いで戦死した。 |
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豪傑 イ冬忠義 |
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イ冬忠義(1879-1963)は滄州市西門裏の出身で、字は良臣。王子平とならんで“滄州二傑”と称された武術名人。
イ冬はモンゴル相撲に秀で、先祖伝来の擒拿術(関節技)と六合拳法を融合して独自の一派を完成させ、1932年に開催された全国武術大会では六合門の第一人者として認定される。
イ冬は正義感が強く、悪を憎むこと親の仇の如しであった。
日本の柔道家が上海の虹口に試合会場を設け、中国人武術家を挑発、侮辱した際にはイ冬は敢然と日本人の挑戦を受けて見事これを退け、中国武術の名誉を守った。のちに忠義拳術社、忠義レスリング(中国式相撲)社を開設して中国武術の発展と普及に努め、また上海商務印書館より著書の「中国レスリング法」を出版した。
新中国成立後も倦むことなく武術の研究と指導にその生涯を捧げた。 |
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“千斤神力王”王子平 |
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王子平(1881-1973)は滄州義和街の出身。中国武術協会副主席、第一回全国運動会(日本の国体にあたる)武術表演試合総審判長などを歴任。
1919年、王は北京で“世界レスリングチャンピオン”と称するロシア人プロレスラーを、1921年には上海万国競技場でアメリカのレスラーをそれぞれ打ち破り、その怪力をもって“千斤神力王”の異名をとった。 1923年、中国武術社を設立。1928年、南京中央国術館の少林門長に就任し、のちに副館長も務めた。朝鮮戦争の際には王は義援金を募って朝鮮に大砲を寄贈するなど社会活動にも熱心であり、晩年に至っても中国武術の研究と指導に没頭して生涯を終えた。 |
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鉄壮士 丁発祥 |
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丁発祥(1615-1694)は孟村の出身。先祖は丁荘子に住んでいたが、のちに孟村鎮に移り住んだ。丁は優れた人格者で、性格は沈着冷静であり、まさに隱者君子の趣があった。
康熙15年(1676年)、ロシアより二名のレスラーが清国にやってきて、北京に試合場を設けてプロレスの興行を行った。彼らは自分たちよりずっと小柄な中国人を馬鹿にしており、事実彼らに挑戦した中国人拳法家はみなことごとく彼らに重傷を負わされ敗退した。そのとき丁はいきなりリング上に飛びあがり、件のロシア人レスラー二人をあっというまに投げ飛ばしてしまった。
丁の前ではいかに力持ちの大男といえども敵ではなく、これを見た群衆は中国人の面子を保った丁に大声援を浴びせた。 この一件を聞いた康熙帝は非常に喜び、丁に謁見して報奨を与え、また他の王候や大臣も詩歌や額などを丁に贈った。 |
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神槍 李書文 |
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李書文(1864-1932)、滄県(現在は塩山)聖仏鎮王南良村出身。
袁世凱が自軍の兵士を訓練していたとき、顧問として中国に来ていた日本の軍事教官が小柄な李を見て“東亜病夫(アジアの弱者)”と侮辱した。
これに怒った李は四人の日本軍人と槍の試合を行い、全員を倒してしまった。
このことにより李は“神槍李書文”と呼ばれ、その名は中国全土にとどろくようになった。
あるときロシアのボクシングチャンピオンが北京で試合を行った。北京・天津の武術家で彼に勝てる者はいなかったが、李はリングにあがるやいなや、一撃でチャンピオンをノックアウトしてしまい、この功績によって当時の宣統帝(ラストエンペラー・溥儀)より金の仏像を賜った。
張作霖が李を奉天軍三軍武術総教師に招いたときには、李はまたしても顧問団の日本軍人から他流試合を申し込まれたが、李の一撃で日本軍人の肩甲骨は粉々に粉砕されてしまい、李の拳法の恐るべき威力に誰もが目を見張った。
李書文は40年間中国全土を渡り歩いて試合を行ったが、生涯無敗を誇り、ついに李に敵う武術家はひとりもおらず、一代宗師として敬われた。 その弟子である霍殿閣、劉雲樵、李玉海も李書文直伝の武術をもって国内外にその名を知られる名人である。 |
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“燕子”郭長生 |
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郭長生(1896-1967)は滄州市馬道街出身。
郭の拳法は目にも止まらぬスピードで、郭が拳を打つと傍で見ている人は一陣の風を感じるほどであったため、人呼んで“郭燕子(ツバメ)”と称された。
1928年、中央国術館にて苗刀を教授し、第一回全国武術検定試験においては17名の最優秀武術家のひとりに選ばれ、軍閥の馮玉祥将軍より直々に龍泉宝剣を贈られた。 郭は“二路苗刀”“苗刀進槍”などの優れた武術を編み出し、さらに馬英図と共同で伝統の“劈掛拳”“瘋魔棍”などに改良を加え、より高度なものに完成させたが、日中戦争中の8年間、郭は門戸を閉じて、滄州に駐留する日本人(多くは軍人)に中国武術を教えることはなかった。 |
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八極初祖 呉鐘 |
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呉鐘(1712-1802)は塩山後荘科村出身。開門八極拳の創始者である。
雍正13年(1735年)、呉は一本の大槍を携えてたったひとりで少林寺を訪れ、少林僧と試合を行ったが、天下に武名高き少林寺の僧侶といえどもひとりとして呉鐘には敵わず、“呉神槍”と讃えられた。
武芸自慢の康熙帝の第十四皇子は呉鐘の勇名を聞いて北京に招き、呉は親王と槍の試合を行うことになった。呉と親王は槍の先端の刃物を外し、かわりに白い粉を塗った長い棒を用いて試合を行ったが、親王がまったく気づかないうちに親王の眉毛に白い粉がついているほど呉の槍の技量は卓越しており、さすがの親王も思わず驚嘆して、“南京から北京に至るまで、大槍の名手に呉鐘あり”と謳われるようになった。 呉鐘は孟村で八極拳を教授し、中国武術の発展に不滅の功績を残した偉人のひとりである。 |
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ラストエンペラーのボディガード 霍殿閣 |
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霍殿閣(1886-1942)は南皮小集村出身。李書文より八極拳と六合槍を学ぶ。
のちに各地を放浪して多くの武術家と試合を行い、ことごとく勝利をおさめたが、どんなに強い相手と試合をしても決して対戦者を負傷させることなく勝利し、武術界の人々はその武術の技量もさることながら、霍の優れた人格と武徳を絶賛した。
1927年、霍はラストエンペラー・溥儀が退位後に隠れ住んでいた天津日本租界の“張園”に招かれ、ここで二名の日本人武術家と試合してこれに勝利し、このことによって溥儀の武術教師兼ボディガードを務めることになった。 1932年、霍は満州国の建国によって再度皇帝の座についた溥儀に随行して、旧満州の新京(現在の長春)に赴き、ここで道場を開いてひろく武術を伝えた。 |
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