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研究発見:河北沧州(滄州)の人類居住史は4,000年を超える
2012年02月13日16:31出所:光明ネット ホットテーマ 携帯電話で見るニュース
王敏之先生が最近出版した「沧州考古录」の本の中で、次のような情報が伝えられている。発掘を通じて沧州(滄州)大地に人類が居住した歴史は既に4,000年以上であることが証明された。元中国文物学会会長罗哲文氏は「沧州考古录」の序文の中で次のように評価している。「沧州考古录」は重要な学術価値を備えており、沧州歴史上第一級の探索考古発見、発掘成果の本である。
王敏之は今年82歳で、中国考古学会会員、中国文物学会会員、中国中日関係史学会会員、中国河北省文物考古学会理事、沧州市文史研究会会員等である。1959年文化財の考古学を学び、且つずっと文化財の考察や研究の仕事に従事し、1990年定年退職後も依然として考古の仕事が楽しくて疲れを感じない。出版は「纪晓岚遗物丛考」「狮城探秘」「沧州考古录」の三部、考古著作は合計百余万字である。
40万字”新作“沧州人類居住史の跡をたどる
沧州大地において人類居住の歴史は4,000年以上、これは一人の82歳の人の新作「沧州考古录」の本の中の記録情報である。どのような証拠証明が有ってこのような結論になったのか?この疑問が我々を王敏之先生の生活に興味を持たせ、彼に“文化財研究の旅”の過程を聞いてみた。
2月7日王敏之先生の家に到着した。彼は笑顔で迎えてくれた。書棚の上には各種の資料が並べ立てられていた。
王敏之は1947年河間で仕事をしていたが、1959年天津で文化財研究の専門課程の養成訓練を受けた。1976年彼は泊头から沧州へ移動し、文化財管理の仕事に従事した。その時から、自分の一生と、この土地の文化財研究の仕事を緊密に結びつけ、一生共にしようと思った。
王敏之は、20世紀後期の考古発見から、沧州大地で4,000年以上の人類居住の歴史が有り、祖先がこの広大な土地の上で既に定住し、延々と絶え間なく増えながら生活してきたことを立証していることが分かると言っている。
この報告は王敏之が最近出版した考古学の叢書「沧州考古录」(合計40万字、5巻)の中から収録したものである。この本は王敏之の“文物考古之旅”系列作品の第三部、特に沧州全市内にある20世紀に発見された歴代の遺物、その中には古代遺跡、古代古墳、古代建築、貯蔵された文物及び徴収され、寄贈され、選択され、買い付けられ、又この地から採集された歴代の文物を紹介及び探索したものである。
これらの意義が語られてから、この本は20世紀の沧州地区の古い文化探索の“中間のまとめ”と言われるようになった。
沧州大地での人類居住が4,000年以上に達する歴史の発掘過程について語るとき、王敏之は次のように回想した。1986年今の任丘市哑叭庄の西北1.5キロメートルの荒地の上で、ある人が磨かれた石器と磨かれ光っている陶片を発見し、すぐに市の文化局に報告され、又追って上級の省文化局に報告された。調査後この地区発掘続行の必要性が認められた。
国家文物局の許可を得たのち、河北省文物研究所と沧州地区文物管理所がチームを組み、1989年春に遺跡に対し緊急的な考古発掘を進めた。1990年夏、秋と、今から4,000年・3,000年前の哑叭庄の遺跡の発掘と出土器物の分析を続けた。
1992年、河北省文物研究所と沧州地区文物管理所が共同発表した。(河北省任丘市哑叭庄遺址发堀报告)
その実は、沧州大地上の人類居住の歴史はさらに遠く遡るべきであるということである。1987年、黄骅北郊で“細石器”の採集が数10件に達した。すぐ後で王敏之がまた現場に行き調査を進め、また採集を進め、前後で“細石器”を100余件採集した。細かい視察を経て、王敏之は発見したこれらの“細石器”と1963年陕西省朔县峙峪で発見した細石器とが類似していることを発見した。いっそう認証を固めるため、王敏之はわざわざ石器を持って北京に行き、中国社会科学院考古研究所考古学家安志敏氏に鑑定を依頼した。安志敏は王敏之が提出した沧州地区の歴史と初期の文化財遺物を比べた観点から賛同を表わし、前後して黄骅に行き、考察、発掘をした。すぐ後で、国家の学術の中心期刊紙「考古」上に論文(河北黄骅发现的石器)が発表された。これらの証拠をもとに安志敏は沧州大地上の人類居住の歴史は一万年ほど遡るべきであると認めた。
風雨も恐れず考古の道を行く
王敏之は沧州大地の歴史の轍の中を数十年歩いて来、その所有する成果は王敏之の考古の仕事に対する執着心や真面目さと切り離すことは出来ない。
上海复旦大学の博士課程の指導教官马涛氏は「沧州考古录」の序文に“考古は土を掘ることである。土を掘らないのは考古と言わない”と書いている。考古従事者が成果を得ようと思えば、必ず年中外に出て田野の調査や発掘作業をしなければならない。王敏之はこのように働き、しかも大変真面目であった。
王敏之の言によれば、前世紀の60年代、彼は正に考古に夢中になっていた。有る時、王敏之は阜城県(55キロ離れた所)へ行き、或る漢代の古城遺跡を調査したいと提起したが、その時丁度父の体調が悪くなった。しかし、父は止めず、しかも断固として支持した。王敏之は父に対して後ろめたい気持ちを心に抱きながら汽車に乗ったが、東光駅に着いた時、突然天からぼたん大雪が降ってきた。“たとえ急いで遺跡に着いても、おそらく早々に大雪に覆われ、何の結果も得られないだろう”このように思い到り、王敏之は方向を転じて家に帰った。
帰宅後、家に住む姉さんが王敏之に彼の父が部屋の中で転倒し、彼女に助けられたことを話した。“父親はずっとこの事に触れなかったが、私は父親の顔に鬱血した傷を発見した。”と王敏之は言い、本当にあの冬、父は一つの病気もしなかった。この出来事は、王敏之の文物考古の旅の船出の際の出征行進曲となり、ずっと彼を励ました。
その後の考古の道において、どんなひどい条件に出くわしても、王敏之は真っ直ぐ前に向かった。
1976年王敏之と省から派遣された考古作業員が一緒に肃宁の漢代の武垣古城の調査をした。遺跡に着いた後、突然大風が吹いた。“風と土が混ざって我々は無理やり目を開けなければならないほど吹いた。“と王敏之は言い、風はますます強くなり、風力7~8位となった。しかし古城の塀の周囲の長さや高さを明確にし、データを広げるため、王敏之は目を一本の道のように細めながら、無理やりデータを記録し、省の考古作業員も測量を進めた。王敏之は日を改めようとか休もうとかは言い出さなかったが、彼らも気が引けて、このように二日間ずっとやり抜き、やっとすべてのデータを明確にすることが出来た。
1977年、王敏之は南皮で調査を行ったが、丁度酷暑の時に当たり、道を急ぐため王敏之は頭いっぱいに汗をかくほど暑かった。宿泊所に戻った後、まず冷水で冷やしたタオルで顔を拭いたが、汗は直ちにまた吹き出てきた。夜記録を調べている時、王敏之は少しめまいを感じ全身が苦しかったが、ずっとやり抜いた。ちょっと書いてはちょっと横になり、またちょっと書いてはちょっと横になり、何回も繰り返して遂に書き終えた。
「纪晓岚遗物丛考」を出版した時、王敏之はいつも調査に行くときは日記を書いた。その書中には成果のない苦しみと成果を得た喜びが書かれている。
1986年、王敏之は紀氏の遺物の捜索を開始した。2001年、王敏之は纪晓岚遗物の二回目の大面積の捜索のため再び北京に行き、一軒の小さな旅館に宿泊した。或るとき、王敏之は多くの纪晓岚に関する資料を捜し当て、胸中非常に喜んだ。夜旅館に帰った後、彼は一本のビールと一本のキュウリと一袋のインスタントラーメンを買い、自分のために成果を祝う宴を開いた。
王敏之夫人は、彼はいつも出張して宿で食べる時は特別簡単で、ある時は一日一~二回の時があると言っている。
退いてもなお休まず百余万字の著作を出版する
「沧州考古录」は現代人が後世の沧州の歴史に正確な資料を提供するため、世に問うている。その前に王敏之はさらに「纪晓岚遗物丛考」「狮城探秘」の二部の考古書籍を出版している。三部の書籍を合わせて“沧州文物考古之旅三部曲”と言い、合わせて百余万字になる。これら全ては彼が退職後完成したものである。
2004年、王敏之は30余万字の 「纪晓岚遗物丛考」を出版し、その中には纪晓岚に関する鮮やかな、知らなければならない多種の珍しくて貴重な文物、絵などの片、遺跡や遺物についての詳細な紹介と考証が収録されている。2008年、王敏之は30余万字の「狮城探秘」を出版し、沧州の歴史の沿革に対し、周囲の郡や県と沧州の古城の色々な方面の考証を行い、沧州の鉄獅子に対し、全方位で探り研究をした。
自分のこの大きなプロジェクトを完成させるため、王敏之はここ数年大量の心血を注いだ。更に感服させるのは“沧州文物考古之旅三部曲”は王敏之自身がパソコンの前に座り、全ピンインを一字一字たたいて書いたことである。出版の前にはさらに工程があった、それは校正である。王敏之の夫人卢玉芬は食卓を指し、彼は必ずここに10時間以上座り、食事時間以外はずっと校正をしていたと言う。
このようにして、王敏之は眼鏡をかけ、テーブルに突っ伏して指で差し、一字一字校正した。あるとき夜遅くなり、妻子の眠りを妨げないよう、王敏之は校正を終えて小さな書斎の床の上で休んだ。
王敏之は妻子が自分を大事にしてくれることを知っており、「沧州考古录」の後記で夫人卢玉芬が生活の上で彼に至れり尽くせりの気配りをしてくれることに、とりわけ感謝をしている。
“沧州文物考古之旅三部曲”は王敏之の20年前の心の底に埋もれた宿望であったが、20年以上苦心を払った末、彼はついに念願を完成した。これに対しこの老人は
“これは一人の公民として尽くさなければならない一つの義務である。”と総括した。
しかしこの一つの義務の中には、なんとこの老人が一生奮闘した文物考古作業に対する熱愛と憂慮が含まれていた。王敏之は、一地方にはこのように読者自身の故郷のことを更によく知らしめる、文物考古関係の読み物が必要であると言う。全く新しい沧州に我々が直面するとき、古い沧州もなおよく知っておく必要がある。特に現在のように生活や仕事のテンポがずっと速くなっている背景のもと、さらに多くの人が沈んだ心を引き上げ、あのような長い歴史の川から真珠をすくいあげ、多くの人に自分の“根”がどこにあり、この土地の真相をたっぷりはっきりと明らかにさせる事が必要である。(于海宁) |